独眼龙政宗1987

  • 日本剧
  • 渡边谦 樱田淳子 三浦友和 岩下志麻 西郷輝彦 久保明 高岛政宏 八千草薰
  • 每集0分钟
  • Disc1第一回「诞生」1月4日放送永禄八年(1565)、…Disc1第一回「诞生」1月4日放送永禄八年(1565)、伊达家の当主・辉宗に最上义守の娘・义姫が嫁いできた。义姫は、东馆に迎えられ、お东の方と唿ばれた。永禄十年(1567)八月三日、嫡男が诞生し、辉宗は「梵天丸」と命名。梵天丸は五歳の时、天然痘に倒れ右目の光を失ってしまう。第二回「不动明王」1月11日放送辉宗は、名僧・虎哉宗乙を梵天丸の学问の师に招く。ある日、梵天丸は傅役・喜多と访れた寺で、不动明王はなぜ怖い顔をしているのかと讯ねた。そこで虎哉から、外见と异なり慈悲深い仏であると闻き、「梵天丸もかくありたい」と呟いた。第三回「亲ごころ」1月18日放送辉宗は、时の流れを见つめた外交的手腕を発挥していた。天正二年(1574)正月、最上家で内乱が起こる。父や実の兄弟の争いに、お东は心を痛めた。そして、さらに心を伤つけられることが起る。家臣たちが、喜多を辉宗の侧室にしようと画策したのだ…。第四回「元服」1月25日放送天正四年(1576)、梵天丸の弟・竺丸が诞生。お东は、辉宗に自分の乳で育てたいと言い、竺丸を宠爱した。天正五年(1577)十一月十五日、梵天丸の元服のxが执り行われ、名を藤次郎政宗と改める。お东から水晶の数珠を赠られ、母だと思い大切にすると誓う。Disc2第五回「爱姫」2月1日放送天正七年(1579)十一月、三春の城主・田村清顕の息女・爱姫が藤次郎のもとに嫁いできた。藤次郎は数え年十三歳、爱姫は十一歳。爱姫の傅役となった喜多は、爱姫を伊达の水になじませようと心を砕くが、田村家から同行してきた侍女が、姫への接触を拒み続ける。第六回「侍女成败」2月8日放送田村家の侍女・村冈が「藤次郎君には、ことのほか凡愚にて主君の器にあらず…」と记した密书を三春に向けて放った。その密书を夺还した喜多が村冈らを问い诘めると、突然、侍女が喜多に袭いかかった。喜多は身をかわし、村冈たちを斩り捨てた。第七回「初阵」2月15日放送伊达家の护神に戦胜祈愿をし相马に向かった藤次郎は、小十郎らと勇敢に戦うが、初阵首を狙われかねない无谋な戦いに、辉宗から「大将は最后まで生きのびるのがつとめ、ときに臆病でなくてはならない」と厳しく谕される。この年の六月、织田信长が死去した。第八回「若武者」2月22日放送本能寺の変は、东北の大名たちにも冲撃を与えた。若武者・藤次郎は、「信长のように生きてみたい」と天下への梦を见る。その顷、谱代の家臣たちがお东と结びつき不穏な动きを见せた。辉宗は、お家分裂の危机に隠居を决意。藤次郎に家督を継がせた。Disc 3第九回「野望」3月1日放送天正十二年(1584)十月、藤次郎政宗は伊达家十七代当主となる。侧衆には伊达成実、片仓小十郎、鬼庭纲元らが选ばれ、家中の若返りが図られた。そして若干十九歳の政宗は、东北で最大最强の芦名に敢然と戦いを挑んだ。政宗の器量を问う合戦であった。第十回「男の器量」3月8日放送天正十三年(1585)五月、伊达军は会津国境の桧原峠から芦名领へ攻め入るが、敌城・大塩城の守备は固く、戦况はおぼつかなかった。小十郎の进言で、政宗は兵を米沢へ一旦引き扬げた。八月、政宗は田村家の协力も得て、再び小浜城の大内讨伐に向った…。第十一回「八百人斩り」3月15日放送戦いの火盖は、小手森城で切って落とされた。大内定纲は会津と二本松に援军を求め、持久戦の构えであったが、成実の働きで戦局は一転、小手森城は陥落。定纲が逃げたと知った政宗は激怒。笼城していた八百人の大内势を皆杀しにして震え上がらせた。第十二回「辉宗无残」3月22日放送父・辉宗は、政宗に二本松の畠山义継との和睦を强く勧めた。政宗は、侘びを不服とし、领土の大半と一子を人质に差し出せと言い渡す。义継はお礼言上と称して政宗に面会を求めるが、拒否されると宫ノ森城の辉宗に拝谒を求め、心を许した辉宗を人质にとって二本松に连れ去ろうとした…。Disc 4第十三回「人取桥」3月29日放送政宗は、父の葬仪を盛大に执り行った。そんな折、二本松城に异変が起きる。佐竹、芦名ら南奥州の大名が二本松城救援のため三万の连合军を组织。政宗は観音堂山に阵を取り、人取桥で连合军と対峙。この伊达の存亡をかけた戦いに、政宗は胜利する。第十四回「胜ち名乗り」4月5日放送三万の连合军を撃退した十九歳の政宗も、冬の二本松城には手も足も出なかった。政宗は、物资补给路を遮断。七月十六日、遂に二本松城を无血开城させる。塩松郡と二本松领を手中にした政宗は、仙道筋の全てを支配。初めての领土仕置きを行った。第十五回「めごとねこ」4月12日放送天正十四年(1586)十月、爱姫の父・田村清顕が死去。爱姫の子を后継ぎに迎える约束の田村家は、権势を夫人が握り、相马に接近。爱姫は自分が懐妊しないのが原因と悩む。そんな折、家臣・饭坂宗康の娘「ねこ」が、政宗の最初の侧室となる。第十六回「南北の敌」4月19日放送天正十五年(1587)、春。米沢の北、长井ノ庄で内乱が起った。政宗は直ちに鮎贝城に兵を出し、谋反を封じた。続いて大崎で内乱が起き、政宗は大崎への出兵を决行するが、家臣・黒川月舟斎の里切りで军势は総崩れとなり、南北の胁威にさらされる。Disc 5第十七回「宫仕え」4月26日放送泉田重光が人质となり山形城に预けられた。その顷、成実が大内定纲の军势を打ち破る。ところが定纲は伊达に奉公したいと、政宗に拝谒。政宗は、定纲を召し抱える。天正十六年(1588)五月、政宗は小手森城を攻略し石川弾正を追放。田村领へ进军し仙道を南下した。第十八回「お东、居座る」5月3日放送政宗は、母・お东に最上との仲介を求めた。だが和睦の交渉はこじれた。両军は国境の中山峠をはさんで睨みあう。その峠に、甲冑に身を固めたお东が和睦を求め座り込んだ。义光は上杉势が领内に攻め入ったことで和睦し、泉田重光は解放された。第十九回「大移动」5月10日放送政宗は奥州平定を急いだ。芦名讨伐に向け、まず相马を打ち砕くと、成実と小十郎队を猪苗代へ进军させ、本队は南の芦名城へ进撃。しかし、突然进路を変え、六月四日、一万五千の大军を率いて猪苗代湖の东岸を北上し、成実らと合流した。第二十回「决戦、摺上原」5月17日放送天正十七年(1589)六月五日、摺上原で政宗が率いる伊达军と芦名军が激突した。芦名军は、家内の内纷から足并みが揃わず、戦いは伊达军の圧胜で终わった。奥州の名门・芦名家は灭亡。この时から昇り竜の如き势いの政宗は、独眼竜政宗と唿ばれた。Disc 6第二十一回「修罗の母」5月24日放送天正十八年(1590)の初め、秀吉は北条氏讨伐の军令を発し、政宗にも参阵を促した。これを政宗は拒絶。お家安泰を愿うお东と老臣たちは、政宗の蛰居を画策。お东は、义光に「政宗の首を関白に献上いたすのじゃ」と、政宗暗杀を强く勧められ苦悩する…。第二十二回「弟を斩る」5月31日放送政宗は遂に参阵を决意、あいさつにお东をたずねた。祝いの膳に舌鼓を打つが、突然に吐き気をともなってのた打ち回る。毒がもられていたのだ…。一命を取りとめた政宗は、苦悩の末、小次郎を谋反者として成败。お东は、义光のもとに落ち延びた。第二十三回「小田原へ」6月7日放送政宗が最上の动きを牵制し、越后から信浓路をたどり、小田原を目指した时、すでに秀吉は小田原城を二十二万の军势で包囲し终えていた。小田原参阵に遅れた政宗は、白かたびらに水引の元结、まさに死装束で秀吉のもとへ参上するのであった…。第二十四回「天下人」6月14日放送秀吉は、政宗の「打首覚悟で参上しました!」との言叶に、「运のよい奴よ…」と、満足そうに微笑んだ。かくして、政宗には何のおとがめもなかったが、会津领土を失うことに。政宗は「秀吉は五十四歳、俺は二十四歳…」と、时节の到来を待つ覚悟をする。Disc 7第二十五回「人质、めご」6月21日放送秀吉は仕置きを行うと同时に、検地、刀狩りを実施。政宗には、爱姫を人质として差し出すよう命じる。爱姫は「伊达家の安泰を…」と、喜多を伴なって上洛。この顷、东北では一揆が勃発。秀吉は「蒲生氏郷とともに一揆を镇圧せよ」と政宗に命じた。第二十六回「絶体絶命」6月28日放送伊达の家臣・须田伯耆が寝返って、政宗が一揆势に与えた直笔を氏郷に持参。政宗谋反の报告は、秀吉のもとにも届いた。政宗は秀吉に上洛を命じられ京へ旅立つ。今度こそは首をはねられる…、関白・秀吉の强大な権力の前に、政宗は絶体絶命であった。第二十七回「黄金の十字架」7月5日放送清洲城で秀吉に拝谒した政宗は「密书に记された鹡鸰をかたどった花押には眼孔がない。本物ならば目に针の穴をあけてある」と申し开きをする。秀吉は、なるほど…政宗逆心の疑いは晴れた、と许す。上洛の命を受けた政宗は白装束に金の磔柱をかついで、京を行进して参上。秀吉は上机嫌で迎えた。Disc 8第二十八回「知恵くらべ」7月12日放送天正十九年(1591)、政宗は、朝廷から従四位下の官位を授かる。しかし、会津の所领は召し上げとされた。再び勃発した大崎、葛西地方の一揆讨伐に向かう政宗に、家臣らは、これぞ天下を取る好机と迫る。政宗と秀吉の知恵くらべが始まる…。第二十九回「左迁」7月19日放送政宗は、一揆を完全镇圧するが、大崎、葛西への国替えを命じられる。家康は、新しい领地は、东には海が开け、西には豊かな金山がある。富は海からも山からも无尽蔵だ。决して左迁ではない、と政宗を谕して、岩手沢城を居城とするように勧めた。第三十回「伊达者」7月26日放送文禄元年(1592)、政宗は朝鲜出阵の命を受け、军势を率いて上洛。九州势から朝鲜远征は始まった。政宗は、三千の兵を三万に见せようと、伊达势の军装を饰り立てた。その绚烂华丽ないでたちに、出阵を见送る町衆たちは「これぞ伊达者よ」と賛辞した…。第三十一回「子宝」8月2日放送伊达势は、肥前・名护屋城での足止めが长引いた。文禄二年(1593)四月、釜山に上陆するが、远征军は各地で败北を喫していた。伊达势も苦しく壮烈な戦闘が続いた。その顷、淀君が男子を産む。秀吉は鹤松の生まれ変りと喜び、远征军の撤退を决定する。Disc 9第三十二回「秀次失脚」8月9日放送政宗は、京で爱姫や娘・五郎八(いろは)と过ごしていた。文禄四年(1595)二月、蒲生氏郷が毒杀された。奥州三将を頼る秀次と亲交を深めていたことが原因と噂された。三成のざん言に惑わされた秀吉は、秀次を高野山へ蛰居、最上义光の末娘・驹姫を処刑してしまう。第三十三回「濡れ衣」8月16日放送秀次事件で义光は谨慎、浅野长政は蛰居、政宗にも上洛の命が下った。政宗は、濡れ衣だと申し开きをするが、流罪の沙汰が下る。政宗は、无念の思いを爱姫に伝えた。そんなある夜、徳川屋敷の门前に立てられた奇怪な高札で、事态は一転する…。第三十四回「太閤の死」8月23日放送庆长元年(1596)十二月、伏见城の城普请が完成。政宗が従四位下右近卫権少将に叙せられた祝宴の席上で、秀吉は倒れ病の床につく。三成が秀吉亡き后の布石を打つ中、秀吉は秀頼への力添えを政宗に頼んだ。庆长三年(1598)夏、家康と利家に后を託し死去する。第三十五回「成実失踪」8月30日放送秀吉の死后、三成と家康が、奥羽の盟主・政宗をめぐって天下の纲引きを始めた。そんな中、出奔していた成実が帰参の勧告に応じず再び失踪。政宗は、成実の居城の召し上げを决断。しかし、成実の妻子は城の引き渡しを拒んで自害してしまう…。Disc 10第三十六回「天下分け目」9月6日放送事実上、最高権力者となった家康は、上杉讨伐を决断。先阵を命じられた政宗は、千代(のちの仙台)に近い北ノ目城を本阵とし、上杉势への勐攻撃を开始。京では、三成が反徳川势を结集して挙兵…。天下分け目の関ヶ原の戦いが始まろうとしていた。第三十七回「幻の百万石」9月13日放送上杉势と戦っていた政宗が、东军の胜利を知ったのは、関ヶ原の戦いが终わって半月后であった。三成が処刑された顷、奥羽の地でさらなる戦いを缲りひろげていた政宗は、家康と交わした百万石の念书を胸に、新しい城普请の梦を広げていた…。第三十八回「仙台筑城」9月20日放送庆长六年(1601)十月、伏见城に上洛した政宗は、帰国を固く禁じられた。庆长七年(1602)、家康は徳川体制を天下に夸示するために、江戸城の周りに大名屋敷をつくり始めた。梦にまで见た千代城を完成させた政宗だが、家康の命に服して江戸に下ることになる。第三十九回「五郎八、嫁ぐ」9月27日放送政宗は、千代を仙台と改めた。山形の最上家の悲运とは対照的に、伊达家では、五郎八と忠辉の婚礼。そして家康の一姫と虎菊丸の縁组みと兴隆を极めた。政宗は、江戸では积极的に仪礼交换や外交につとめ、仙台では国作りとその経営に没头した。Disc 11第四十回「大船造り」10月4日放送政宗は、宣教师ルイス・ソテロに仙台での布教を认める。狙いは、南蛮との交易であった。そんなある日、忠辉の家老・大久保长安から、天主教の入信帐という妖しげな连判状を见せられる…。政宗は家康から南蛮船建造の许しを得るが、连判状が露见する。第四十一回「海外雄飞」10月11日放送南蛮船が完成し、政宗は仙台城で南蛮使节団を発表。乗组员は、ソテロや支仓常长ら総势百八十六名。常长には、イスパニア舰队を大坂に唿び寄せる密命が託された。庆长十八年(1613)九月、サン・ファン・バウティスタ号は政宗の梦を乗せて月ノ浦を出港した。第四十二回「大坂攻め」10月18日放送庆长十九年(1614)、政宗は、忠辉の越后高田城の城普请を见守り、家康の信用回復に努めていた。その顷、真田幸村ら武闘派が主导権を握った豊臣方が、家康の画策にのって戦闘态势に入った…。十一月十九日、遂に大坂冬の阵の火盖が切って落とされた。第四十三回「ねこ、宇和岛へ」10月25日放送秀頼と淀君は、家康の讲和条件を受け入れた。徳川方は、大坂城の堀を埋め始めた。家康は政宗の长男・秀宗を十万石の大名に取り立て、伊予宇和岛を所领配分した。猫御前は不服であったが、宇和岛藩十万石の创立のためと、海路、宇和岛に向かう。Disc 12第四十四回「大坂夏の阵」11月1日放送家康は秀頼に伊势への転封を命じた。秀頼はこれを拒み、再び决戦を辞さぬ构えを见せた。徳川势は、堺を手中に纳め大坂への武器弾薬の补给路を断った。淀君は徳川势が三万五千の大军と知り、和睦の方法を探るが、时は遅く大坂夏の阵が始まった。第四十五回「ふたりの父」11月8日放送政宗の諌言で大御所のご机嫌伺いに赴いた忠辉は、父・家康に不満の数々をぶつけた。政宗の力添えで、忠辉は禁中に参内し、しかるべき勲位を授かることになるが、この大事を忠辉は破ってしまう。家康に婿の父として诧びに赴いた政宗であったが…。第四十六回「离縁状」11月15日放送もはや戦国の世は终わった。白石城の片仓小十郎景纲は、伊达家の将来を案じながらこの世を去った。その顷、江戸・伊达屋敷の五郎八は、夫の命を救う术として、忠辉との离别を覚悟する。それは、伊达と松平を切り离そうとする幕府の狙いでもあった…。第四十七回「天下の副将军」11月22日日放送忠辉が手讨ち覚悟で父・家康を见舞いに骏府へ赴く。家康は、会いたくても会えぬと涙を浮かべた。そして政宗に「天下の副将军として、秀忠を助けて欲しい」と頼み、元和二年(1616)四月十七日、眠るようにこの世を去った。政宗は副将军として采配を振るうことになる。Disc 13第四十八回「伊达流へそ曲がり」11月29日放送元和二年(1616)夏、幕府の仙台藩讨伐の动きがある中、将军・秀忠の姪・振姫と忠宗の縁组み话が舞い込む。しかし政宗は、振姫では不服と开き直る。秀忠は振姫を养女とした。政宗は「これぞ伊达流へそ曲がり术の极意じゃ」と、ご机嫌であった…。第四十九回「母恋い」12月6日放送东北の名门最上家に、幕府は改易の断を下し、山形城召し上げの名代を政宗に命じた。成実の率いる大军によって、引き渡しは何の障害もなく行われた。政宗は、母・保春院を仙台に引き取ろうとするが、最上家の復兴を愿う保春院は仙台入りを拒む。最终回「大往生」12月13日放送副将军・政宗の地位は揺るぎないものとなった。寛永二年(1625)、忠宗に家督を譲り、人生を享楽する日々を送る。しかし、身体は病にむしばまれ、寛永十三年(1636)五月二十四日、「画像にも木像にも両眼を入れさせよ…せめて来世では爱を両眼で见たい」と言い残して、江戸・伊达屋敷で大往生を遂げる。享年七十歳であった。

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